10-FPSS




第10回サイファイ・フォーラム FPSS


日 時: 2024年3月9日(土)13:00~17:00

会 場: 恵比寿 カルフール C会議室


渋谷区恵比寿4-6-1
恵比寿MFビルB1

参加費: 一般 1,500円、学生 500円
(コーヒーか紅茶が付きます)


プログラム

(1)13:00—13:40  矢倉英隆 シリーズ「科学と哲学」④ ソクラテス以前の哲学者-4

今回は「紀元前5世紀中期の最も偉大な思想家」とも呼ばれるイオニアのクラゾメナイ出身のアナクサゴラス(c. 500-c. 428 BC)を取り上げます。彼はイオニアからアテナイに移り住み、イオニア哲学を最初に持ち込み、人生の後半の30年ほどの時間はその講義に費やされました。彼は物体は無限に分割可能で、最も微小な構成要素を「スペルマタ」(種子を指す)と呼び、この世界のアルケーを「ヌース」(理性)としました。スペルマタの混成物がヌースによって秩序立ってくるという世界観を持っていたと言われています。

 

(2)13:40—14:20 木村俊範 日本のテクノロジーには哲学が無かったのか、置き忘れたのか? 一テクノロジストの疑問(第9回発表内容) <ディスカッション・セッション>

今回のイントロ内容は、こちらになります。この内容に沿って議論していただければ幸いです。


 (3)14:20-15:30 佐賀徹雄 社会のための科学について考えること――元工学研究者の問い

私の個人的なテーマ(問い)は「社会のための科学とはなにか」です。これは「人のための科学とはなにか」と言い換えることができます。FPSSへの参加はこの「問い」を探ることが一つの大きな動機でした。その後、FPSSで広範な専門家の方々との議論の輪に参加しながら、自身の問いに対する考えを続けてきました。もとより私にこのような壮大なテーマの解へ近づく資質のないことは十分に認識しています。そこで、2023年にFPSSに設けられた Science and Philosophy for Nature and Life (SPNL) に、現時点での私の個人的な雑感を投稿しました。標記の問いに対する具体的な考えはまだ私の中には影も形もありません。このことを予めお断りしたうえで、元工学研究者が工学的な立場から眺めた科学の専門性や専門化がもたらしていることそして科学と社会との関係性などについて、個人的な見解として話題提供させていただきます。皆様との対話を通じてこの問いへの展開が拡がり、理解の端緒が掴めることを期待したいと考えています。

 

(4)15:40-16:50 フォーカス・ディスカッション<1> 「進歩」について考える

前回のカフェSHEで、科学は進歩するが哲学に進歩はあるのか、というような問いかけがありました。この問いの中には進歩はよいことであり、進歩しないものに存在価値はあるのかという価値判断が含まれているように感じました。この問題は現代文明あるいは文化を考える上でも重要になると考え、この機会に「進歩」について考えを深めておくことにいたしました。これからもいろいろなテーマが現れる可能性がありますので、このセッションを「フォーカス・ディスカッション」(FD)と名づけ、折に触れて開催することにいたします。今回のFDでは、最初に主宰者から10分程度の問題提起をした後、参加者の皆様が議論するという形式で進めたいと思います。議論を始める前には曖昧だった考えがより明確になったり、議論の後に新しい景色が見えてきたりすることになれば素晴らしいと思います。ご理解、ご協力のほど、よろしくお願いいたします。――矢倉英隆


 参加を希望される方は、以下まで連絡をいただければ幸いです

よろしくお願いいたします

連絡先: 矢倉英隆(she.yakura@gmail.com)



会のまとめ




今回は2名の方の欠席はあったが、全体として活発な議論が展開しただけではなく、各発表の間に当初想像していた以上の繋がりが見えてきたことに驚きながら聴いていた。これはわたしの想像なのだが、参加者の間に――意識的か無意識的かは分からないが――基本となる問題意識が共有され始めているのではないだろうか。その大きな網の中に、出てくる話題がすっぽり収まってくるので全体としての繋がりを体感しやすいのかもしれない。そんな感触を持つに至った初めてのフォーラムとなった。以下、それぞれの発表の概略をまとめておきたい。


(1)矢倉英隆 シリーズ「科学と哲学」④ ソクラテス以前の哲学者-4(発表スライド

4回目となる今回は、イオニアからアテナイに移住し、イオニアの科学と哲学をアテナイに広めたと言われるアナクサゴラス(c. 500-c. 428 BC)を取り上げた。本題に入る前に、11年目に入るサイファイ研究所ISHEの考え方を再確認する意味で、ホームページにある次の言葉の意味を説明した。
「知識で終わる世界」 から 「知識から始まる世界」 へ
「科学、哲学、歴史」 から 「人間存在の理解」 へと飛翔する
 それは生きる目的である人間になるため・・・

つまり、知識(事実)が羅列されたままにある状態から、そこに秩序を求め、そこにあるかもしれない根本原理の探索へと向かう生活を目指す; この世界の明晰な認識のためには科学の動員は必須だが、それだけでは不十分で、哲学を含めた人文知がその認識に豊かさを与えることを意識し、最終的に人間存在の理解を目標に掲げる; これらの試みは、人間として生は受けたものの人間には成り切れないという矛盾の中にある我々の生を満たすためである。ISHEのこの営みへのご理解とご協力を改めてお願いした。振り返れば、今日の発表はいずれもこの趣旨に合致するものとなっていたことに気づき、驚いたのであった。 

さて、アナクサゴラスの人生はどのようなものだったのだろうか。彼は、日常生活の細々したことから離れ、知識の探究に一生を費やした人物とされ、我々の存在理由は宇宙、我々を取り巻く世界を研究することにあると主張したようだ。アテナイには少なくとも30年は滞在し、その過程で独自の哲学を確立した。その概要は以下のようになるだろう。

前回取り上げたエレア派のパルミニデス(c.520-c.450 BC)の影響下にあったのか、すべては最初から存在しており(存在は必然で)、無からの創造はあり得ないと考えていた。物質はどこまでも分割可能であるため、最小というものはない。その上で「万物の中には万物の一部がある」とした。世界の起源には、個別の物体を識別できないような一つの混合物がある。ある時点で、人間には想像もつかないような渦運動が起こり、回転と分離をもたらす。これが最初に空気とエーテルを分離し、その後いろいろなものが分かれてくる。この回転と分離を司っているのが最も純粋で万物の一部を含まない 「ヌース」 (Nous) である。アナクサゴラスにとってのアルケーに当たるかもしれない。

彼は、宇宙の開始と支配原理であるヌースを、中立的で自然主義的なものとして解釈した。そのことにより、神話や宗教(理神論的でも有神論的でもない)とは距離を取ったのである。この見方が目的論的思考をするソクラテス、プラトン、アリストテレスらの不興を買ったことが記録に残されている。アナクサゴラスは世界の説明のためにいろいろな自然物を持ち出してくるだけで、人間にとって最良・最善のものは何かについての省察を促さないと見做されたようである。ISHEのミッションに照らせば、科学から哲学に向かう道が示されていないと批判されたのかもしれない。 


(2)木村俊範 日本のテクノロジーには哲学が無かったのか、置き忘れたのか? 一テクノロジストの疑問 <ディスカッション・セッション>(発表スライド

第9回FPSSの発表後にディスカッションの時間を持てなかったので、今回そのセッションを設けることにした。これまで半世紀以上の間、テクノロジーを専門として研究生活を送ってきたが、1980~2000年に迷いの時期を経験。この時期に基本的なスタンスを決めたという。

それは、食料、環境、エネルギーの問題をライフワークにする; 科学的アプローチを重視した実学を追求する; 現場・実体験を終始する; 時空の広い視野を維持する; 新規開発、シーズ技術の提案を蔑ろにしない; 公的情報も含めて出回っている情報を妄信しないことであった。この時期に、それまでのテクノロジーの上に科学があり、さらにその上に哲学が来るという見方から、これら三者が対等に相互関係を持つようなイメージに変容していったようだ。

これまでの経験(特にプラスチックの扱いに関する)から感じてこられたことも多かったようである。例えば、地球環境保全に対する世界的な動きに日本政府として適切に対応できていたのか; 国際的な舞台でのvisibilityを上げるために無理な数値設定していないか; バイオ生分解素材の開発や普及に関する政策提言はどれだけ実現されてきたのかなど、問われなければならない問題が少なくない。

これまでの議論は政策立案者やビジネスの側からのものが中心で、リサイクルの担い手である国民の意見がほとんど反映されてこなかった。パブリックコメントなども形式的なもので、ほとんど取り上げることはないという。これからはその権利を持つ国民が具体的な過程に貢献しなければ、科学技術は信頼されないどころか、抵抗を生み出す可能性がある。前回牟田氏が紹介した貢献型専門知や対話型専門知などを駆使できる人材の育成も求められるだろう。

ディスカッションでは、以下のような問題が議論された。まず、分解しにくいプラスチックを減らすには、作り方を替えたり、作る量を減らすことも考えられるが、如何かという質問が出た。ただ、実際にはcircular economyという考え方が採られていて、作って使うが処理もうまくしようということらしいが、再利用のための処理にはかなり費用がかさむようである。

科学や哲学に留まるのであれば、まだ問題は研究者の手中にあるが、そこに政治や経済が入ってくるのでいろいろな矛盾に突き当たるのではないか。どのような社会に我々は生きるべきなのかという基本的なところの議論が必要になるのではないかという指摘があったが、異論はなかった。同時に、そのようなことを考えている関係者が非常に少ないという観察や、短期的な成果を求める傾向が強くなっているため画期的な成果が出にくくなっているという指摘もあった。

全体としてみると、国民も含めた関係者間のコミュニケーションの不足による相互理解の欠如が問題(例えば、正しい行動に導かない)の根底にあるという印象を持った。時間はかかりそうだが、「率直にものを言う」(パレーシア)という基本が、社会を巻き込んだ問題の解決には不可欠になりそうである。


 (3)佐賀徹雄 社会のための科学について考えること――元工学研究者の問い(発表スライド

発表の概要は、最初に(1)ご自身のされてきた工学(流体工学)研究の内容と退職後に経験された農耕がもたらした見方の拡がり、(2)工学(応用科学)の専門性と社会実装への移行とその意識、そして最後に(3)科学と社会の繋がりについての省察内容を発表された。

まず、流体工学分野で行った粒子画像流速測定法particle image velocimetry: PIV)の開発と実用化(最終的にはPIVハンドブック作成)に至る1980年からの長い道のりについて紹介された。PIVとは、流れの可視化技術と画像情報処理技術を融合させた乱流解析技術とのことであったが、詳細な研究過程についてはスライドを参照いただければ幸いである。

研究を終えた後の2007~2014年には、自然と交わりながらの農耕に携わった。佐渡の里山里地の休耕田を開墾し、化学合成肥料や農薬を使用しない生物多様性農業を8年間試みた。この間、穀物(コメ、小麦、ライムギ、トウモロコシ)、130種の野菜、ブルーベリー300本、ブラックベリー50本、リンゴ、ブドウなどの他、ハーブ68種、花142種を栽培。この過程で、栽培作物と多様な生き物の共生と対立の結果、共進化した未知の世界が展開する様子を観察した。

この経験で感じ考えたことは『野良仕事はたいへんだ――野良から自然と人間を考える』(2023)にまとめられている。工学と農耕という自然に対する態度の異なる世界に身を置いて、人間社会が人間中心の拡大志向に陥り、お金(経済)重視の価値観が覆う中で現代の問題を引き起こしていることが見えてきた時に、サイファイ研究所ISHEを発見されたという。広いネット世界におけるこのような遭遇は奇跡的にも見える。

次に、(2)工学(応用科学)の専門性と社会実装への移行とその意識についての発表があった。自然科学の中の基礎科学は自然の原理や法則を発見することに向かうが、応用科学の場合には人間社会への応用(実装)が前提となっている。最近の傾向として、専門分野が細分化し、「タコツボ化」と言われるように分野間の繋がりが希薄になっている。

1998年に学会(工学における教育プログラムに関する検討委員会)が出した工学の定義には、数学と自然科学を基礎とし、公共の福祉のために快適な環境を構築する学問であり、「ときに人文社会科学の知見を用いて」という文言が入っている。社会との接触が不可避な学問にあっては当然なのだが、基礎科学に身を置いた者にとっては頭になかったため、驚きであった。さらに、工学の評価は地球規模での人間の福祉に寄与しているか否かがポイントになるという。しかし、人文社会科学の適用は多角的、積極的に行われたのか; 地球規模での貢献は長期的、広域的、倫理的に充分であったのかという現状認識に至ったようである。

そこから最後の(3)科学と社会の繋がりについての発表に移った。ここで問題にされたのが、科学哲学者のジェローム・ラヴェッツが唱えた「ポスト・ノーマル・サイエンス(PNS)」である。これは科学の領域だけでは解決できない新たな問題が出現してきた状況に対応するもので、例えば、ゲノム編集、ロボット、人工知能などの問題が挙げられる。これらが生み出す可能性のある問題を考える場合、科学は必要であるが、それだけでは不十分である。つまり、専門家の意見は重要ではあるが、そこに政治・行政、市民の参加が欠かせない総合知が求められる状況が生まれている。これは、前回牟田氏によって取り上げられたアルヴィン・ワインバーグ(1915-2006)の「トランスサイエンス(領域横断的科学)」の認識とも重なるものである。このような状況において、科学と人間社会の関係をどのように考えていくべきなのかが大きな問題になる。一つ言えることは、ここで求められる総合知を熟知し、コミュニケーションに長けた人材の育成が求められるということだろうか。

最後に、ハンス・ゲオルク・ガダマー(1900-2002)の思索――問いを出すとは、可能性の扉を開け、開けたままにしておくこと; 問いの技術とは、問いを続ける技術であり、それは思考の技術である; 問いを出し対話することが理解に繋がり、理解とは無限の対話過程である――に肖り、次の問いを出した。それは、人にとって大切なものは何か? 科学者は専門の中に思考が閉じていないか? というもので、これからの方向性として、科学の進歩による社会の発展を目指す文明の科学から、共生と協創の科学、文化としての科学への変容が求められるのではないかという問題提起で終わった。

参考文献


(4)フォーカス・ディスカッション<1> 「進歩」について考える(イントロスライド

このフォーラムでは、毎回違う話題提供がされるため、テーマが拡散する傾向がある。思考の幅を広げるためにいろいろな知を取り込むことは重要である。しかし同時に、一つのテーマについて思考を深めていくことも求められるだろう。実際、これまでのカフェ/フォーラムを振り返ると、深化すべきテーマに溢れている。これから折に触れてそれらのテーマを取り上げ議論する場を作ることにし、その場をフォーカス・ディスカッション(FD)と名づけた。

前回のサイファイカフェにおいて、科学には進歩があるが、哲学には進歩はあるのか、もしないとすれば存在価値はないのではないか、というような発言があったので、第1回のFDでは「進歩」という概念について考えることにした。最初に、呼びかけ人から議論を誘導するイントロがあった。

まず、人間精神の進歩という問題について簡単な説明があった。ここで、二コラ・ド・コンドルセ(1743-1794)が投獄され獄死する前の9ヶ月間身を隠していた時に書き、死後に刊行された『人間精神進歩史』(1793-94)が重要な役割を果たしたこと、その後を継ぐ形になったオーギュスト・コント(1798-1857)の3段階の法則には明確な進歩の思想が見られることなどが紹介された。コントの3段階の法則とは、人間精神は神学的段階(この中には呪物崇拝 ➡ 多神教 ➡ 一神教という3つの段階がある)から形而上学的段階を経て、最終的には人間精神の最高段階とされる実証的(科学的)段階へ到るというものであった。

このような考え方は現代にも大きな影響を及ぼしており、科学の進歩や現代の問題の背後にある哲学にもなっている。最近、科学、芸術、哲学による知の発展が人間性の完成に導くという「進歩」の思想、啓蒙思想は我々に幸福をもたらしたのかという問いかけも出されるようになっている。例えば、このやり方は人々が同じことをやるため、標準化され均質化された社会になり、必然的に競争に追われる生活になるのではないか; 進歩の恩恵に浴する機会に不平等が生じ、ルサンチマンを抱く人が増えるのではないか、さらに、啓蒙思想には植民地主義的精神を生み出す危険性があるのではないか、というような疑問である。現代社会を観察すると、これらの懸念には真理が宿っているようにも見える。

それから、科学、哲学、芸術などの異なる分野における進歩についても話題提供された。例えば、科学史家のジョージ・サートン1884-1956)は、知を累積的に獲得し進歩するのは科学だけだとまで言っており、似たような考えの持主は確かに存在する。しかし、果たしてそう言えるのか。ここでも、そもそも進歩とは何を言うのか、その進歩をどのように評価するのかなどの問題が付いて回る。つまり、出発点に戻るのである。その上で、他の分野における進歩についても考えなければならないだろう。

最後に、最近の人工知能や遺伝子編集などの著しい科学技術の進歩があるが、これらの問題をどう考えるのかも「いまここ」の課題になるという指摘があった。そして最終的には、「人間とは何なのか」「どのような在り方が人間にとって最善なのかという」というような科学だけでは回答できない、人間が目覚めて以来そこにある問いが浮かび上がってくる。その意味でも、サイファイ研究所ISHEが目指す射程は今後も益々重要になるだろう。

ディスカッションにおいて、「進歩(progress)」「発展(development)」「変化(change)」などの言葉に含まれるニュアンスについてコメントがあった。ある解釈によれば、進歩には目的志向性(goal-directedness)や何かを深めるという側面がある一方、発展には深化よりは拡大に重点があるようで、変化が最も中立的ではないかとのことであったが、さらに検討が必要になりそうである。

また、人間精神の進歩という点に関してコメントがあった。例えば、病気の治療法が新しく開発されてくるのは進歩と言えるかもしれないが、人間精神が持つ能力に関しては昔から変化はなく、知識(情報)が増えたことにより、見方が変化しただけではないかという疑問であった。確かに、古代ギリシアの哲学者の思索の跡に触れる機会が増えると、彼らの思考力の強靭さには現代人も及ばないと驚嘆することも少なくない。

宗教に進歩の思想はあるのかという質問もあったが、宗教には進歩はないという回答があった。宗教改革も進歩とは呼ばないようである。また、哲学を進歩という指標から考えることは、逆に哲学という営みを狭めることになりかけないというコメントもあった。そのように考えると、哲学の進歩が目に見えないので存在価値はないという見方には与すべきではないというところに落ち着きそうである。いずれにしても、進歩という概念にはさらに深めるべき問題が多くあり、今後も考えていかなければならないだろう。


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 例年は春秋の2回開催のFPSSであったが、今年は夏にもう1回加えることにした。

 次回の予定は7月13日(土)、同じ時間、同じ場所とした。

 奮って参加していただければ幸いである。




(まとめ: 2024年3月11日)



参加者からのコメント


◉ 本日は、どうもありがとうございました。小職にとって2回目の貴フォーラム参加となる今回は、前回とは、また切口の違った視点からの洞察と学びの時となり、前回以上にとても面白かったです。まさか、あの場で「粒子法」のシミュレーションについて、お話を伺うとは思ってもおりませんでした。加えて、懇親会にも同席させていただくことができて、たいへん感謝しております。今後、先生のフォーラムが益々の盛会となりますよう、お祈り申し上げます。ひきつづき、ご指導・ご厚情のほど、よろしくお願い致します。


◉ 昨日は途中からでしたが、大変有意義で学ばせて頂き感謝しています。

木村先生の「求められる専門知 VS 提供出来る専門知」と言うところで、横浜の崎陽軒の焼売の容器がエゾ松を使われている事を知り、少々驚きました。素晴らしい試みだと思いましたし、日本は間伐材が山に放置されている問題も昔からあり、友人で和歌山の材木屋がいるので教えてあげようと思いました。

また、佐賀先生と細井先生の流体力学については、私の夫が大学生の頃、流体力学を学んでいた事を思い出しました。46年前くらいなので、かなりの進歩を遂げたのだろうと思いましたし、数値によるもの、実験によるもの、理論による流体力学があるのだと知り、これって、海や河川だけでなく、空気中の自然システムエネルギーとも関係しているのだなと。それが、農業への実験へと繋がり、佐賀先生の作物の生産と、ビオトープに多くの昆虫が生息するようなになったようで、作物も多種多様に生産されて、日本の農業に大変貢献されたのだと関心致しました。

また、ポストノーマルサイエンスに関しては、人々の意識と哲学と政治によって大きく動かされ、そこには、倫理と金銭の流れも加味し、変化して行くものなのだろうと感じました。やはり情報と言うものが、どのように流され (これも情報流体力学かな?)、人々、世界に発信されるのか?と言うことは、今後の自然と共生して行く上で大変重要な項目であると、感じました。矢倉先生の科学哲学の講座では、知を深めるキッカケとして、いつも感謝しています。ありがとうございました。


◉ 土曜日の勉強会+は楽しく有意義でした。久しぶりに他人と話した感じがし、日本に戻った実感をもつことができました。ありがとうございました。ではまたの機会(7月)にでもお会いしましょう。


◉ 「社会のための科学について考えること」ということであまりまとまりのない話題提供をさせていただきましたが、みなさまからの活発なご議論をいただき有難うございました。

科学の価値は中立ですが人が介在するとことで思いもつかない使い方や事象が生じてくる。そのことに常に対処していく社会のシステムつくりと考え方を醸成し社会に浸透させていく必要がある。しかし、人の心は多様で非線形なので、科学と社会との関り合いの在り方を考えることは人にとっての永遠の課題なのかもしれません。哲学による「人間存在の理解」が社会と科学をつなぐ鍵となるのでしょうか。

場所をかえての議論も楽しいものでした。「進歩」は変化とよく識別しなければなりませんが、私はprogressよりproceedのように行きつ戻りつしながら進歩することのほうが性にあっています。矢倉先生の第一部での議論の感想が、「国民も含めた関係者間のコミュニケーションの不足による相互理解の欠如が問題(例えば、正しい行動に導かない)の根底にあるという印象を持った」ということでしたが、基本的にそれぞれの場所ではいろいろな努力が続けられていても、相互を理解する意識がなければ、それは徒労に終わってしまうことには同感いたします。時間はかかりそうだが、「率直にものを言う」(パレーシア)という基本が、社会を巻き込んだ問題の解決には不可欠になりそうである」ということが結論でしたが、日本文化の根底に流れる「忖度」は日本社会の進歩を妨げているということも第二部での共通の理解のように思えました。

貴重な対話の時間をいただきありがとうございました。


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